2013年御翼2月号その1

NHK大河ドラマ「八重の桜」

 先週始まった二○一三年NHK大河ドラマ「八重の桜」の視聴率が約二十一%と、好調だったという。会津藩(現在の福島県)の出身で、戊辰(ぼしん)では銃を持って戦い、のちに同志社大学を創設した新島襄の妻となる山本八重(一八四五〜一九三二)が主人公である。幕末に、江戸幕府に味方した会津藩は、明治新政府の軍勢に攻め込まれる(戊辰戦争)。代々会津藩の砲術師範を務める山本家に生まれた八重は、武士の精神を持ち、最新式のスペンサー銃(七発まで弾を込めることが可能)を手に新政府軍を相手に戦った(当時二十四歳)。しかし、明治元年(一八六八)九月二十二日、会津藩が降伏すると、八重は心のよりどころである故郷を失う。十三歳年上の兄・覚(かく)馬(ま)を頼り、京都に移り住んだ八重(二十七歳)は、兄の勧めで宣教師から英語を学ぶ。そして、自然と聖書の教えに触れていった。
 八重は京都にできた日本最初の女学校(新英学校女紅場―にょこうば)で舎監として働くが、運営予算が行き詰ると、八重は京都府庁に出向き、女学校への補助金を増やすよう、役人に直談判(じかだんぱん)に行く。当時、女性が公の場で男性に意見するなど、非常識極まりなかった。そんな八重を人々は烈婦(信念を貫きとおす激しい気性の女子)と呼ぶようになる。八重は、兄・覚馬のところで、米国から帰国した新島襄と出会う。襄は米国で日本人初の牧師となり、キリスト教主義の大学を作る夢を抱いて帰国していた。やがて八重は洗礼を受けて、明治九(一八七六)年一月、新島襄と結婚する(襄の理想の結婚相手は、米国で見て来た、夫と対等の立場で生きる女性だった。女性は男性に従うのが美徳とされた当時の日本では、まずいないタイプだった。しかし、武士の心を持ち、世間の常識に捕らわれず、自分で考えて行動する女性・八重に心惹かれたのだ。
 夫と対等にふるまう八重を、世間は悪妻と呼び、やがて新島が創立する同志社の学生らからも批判されるようになる。しかし、信仰に触れた八重の心は、次第に柔和になっていったことがうかがえるエピソードがある。クリスチャンである襄と婚約してから一ヶ月後、八重は四年間教師として勤めていた府立の女(にょ)紅場(こうば)を解雇される。これは府知事が、学校関係者に相談なく独断で決めたことで、知事は八重が学校でキリスト教を堂々と教えるようになることを心配したのだ。寺社仏閣が多く、御所もある京都でのキリスト教に対する反発が大きく、知事はキリスト教に対して態度を硬化させていた。 
 八重は晩年に至るまで、戊辰戦争の時に銃を持って戦うことを選んだその性格は変わらなかった。そうであるなら、解雇は不当だと闘争心をむき出しにして知事につめよってもおかしくないが、彼女はそうはしなかった。八重はこの解雇に関して実に冷静で、腹を立てたり、悔しがったりするどころか、「いいのよ、これで福音の真理を学ぶ時間がもっととれるわ」と言って、襄をすっかり感心させた。八重は襄や聖書と出会った短い間に、勝ち気な性格はそのままに、抵抗しないというまったく新たな戦い方を学びつつあったのだ。
 八重は、キリスト教を知らなかった時代から男性中心の考え方に真正面からぶつかってきた女性である。その八重にとって、キリスト教の「男も女もない」という聖書の教えは、無理に男性になるのではなく、女性としてありのままの自分を活かし、自私らしく生きる道をひらいてくれる嬉しい知らせだった。結婚後、襄と八重は同志社大学のそばに新居を建て、そこを開放し教会を始めた。八重は夫が四十六歳で亡くなった後も、その遺志を継いで同志社の発展のために働き、また学生たちの世話をした。襄の死後、初めての同志社の卒業式で、学生たちが実際に八重に接して見ると、八重がお高くとまっていると悪く思っている人がいるのは、全く根拠のないことだと実感した。そして、八重が、体調も悪く疲れているはずなのにキリストの愛に包まれて本当に穏やかで、絶えず微笑みを浮かべ、愛嬌のある会津なまりで学生たちをもてなしてくれるのに、皆、親しみを感じた。八重の信仰を強めたものに、一四年間の襄との歩みに加え、同志社の歩みを長きにわたり、見守ってきたからであろう。八重はすべてのことに感謝する信仰を持つようになり、未亡人になってからも、天国での再会を夢見て、広い家に独り住むことに、まったく寂しさを感じていなかった。
 新島襄は、「社会改良ということにかけては婦人の影響力は男子のそれに勝っています。婦人の力は本当に偉大です」と言い、女性たちにも社会のために何かをする機会を与えなければならないと言いのこしている。
 襄を天に送った一八九○年、八重は日本赤十字社の社員となり、日清・日露戦争のときには、ボランティアの看護師として広島県の陸軍病院で働いた。その献身的な看護から、八重は勲章を授与されるが、これにより、看護師の働きを社会に認識させた。また、茶道の師範になるが、江戸時代末期までは茶道は武士階級の男性が行うものであり、八重は茶道を女性に開いた一人だった。

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